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この度の大震災、原発事故への政府のあまりにお粗末な対応には国民の一人として我慢がなりません。被災された方たちの一時も早い復興を静かに祈る立場であったとしても、ある程度の情報の発信はしていかなければならないと思っております。それにも増して、うちひしがれている方々に「頑張って下さい」の声掛けや募金だけでは、被災された方々の疲労感が増すばかりかもしれませんから、被災者の心に寄り添うためにもなるべく現状を分かりやすく不偏不党に考えてみたいと思っています。時の政府への発言を含め無関心を続けることは未来の世代に大きな負債を残すことになるかもしれませんから、まずは一緒に知識を得ていきましょう。それでは福島に至る道程の確認から始めましょう。 |
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人類の発明の歴史の中で我々の生活を一変させたものは、間違いなく電気の利用と言われています。静電気に関する記録は紀元前からのものが残っていますが、白熱電球による電灯として有効活用されるようになったのは、かのエジソンの1879年の発明によります。以後電気の大衆化は急速に進むことになりました。我々は漆黒だった闇夜を煌々と輝く明かりで排除する術を手に入れたのです。日本に初めてのアーク電灯(白熱電球ではない)が灯ったのが1878年銀座でした。1886年には現在の東京電力に繋がる日本初の電力会社東京電灯が開業しました。この会社が初めて灯した白熱電球は鹿鳴館を照らしたと言われています。江戸時代260年を通じて日本人のGDP(国内総生産)は現在の購買力に直すと約500ドル(年間一人あたり)でほぼ一定であったものが(低成長!)、明治維新後急速に上昇し、電力その他の技術革新により各方面の産業が発展し、日露戦争前には1180ドルに達しました。その後1940年には戦前の最高値2874ドルになったのです。これらを下支えしたのが電力を始めとした様々なエネルギーの供給でした。しかしその後の太平洋戦争により産業基盤は大きく破壊され、GDPも急落しました。再び平和が訪れると奇跡の復興が始まり、1955年にはGDPが戦前の最高値をついに超えました(2010年は42820ドル)。戦前の東京電灯が曲折を経て戦後の産業発展を支える電力の供給のために新たに東京電力として発足した1951年は丁度日本が戦後の復興に脇目も振らず取り組んでいたこのような復興期にあたります。 |
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1950年代後半は第一次家電ブームと言われた頃になります。テレビ、電気冷蔵庫、電気洗濯機の急速な普及の時期です。電力需要もうなぎ登りとなり火力発電所が次々に建設され、1959年には火力発電量が水力発電量を凌駕しました。日本全国で順調に戦後復興が達成される中で石炭産業は斜陽化(映画フラガールに背景が描かれている)し、常磐炭坑を擁していた福島県は新たなエネルギー源を模索していました。福島県の中でも特に浜通りの双葉郡地区(大熊町、双葉町、浪江町)は、それぞれ産業化に成功していた北は相馬地区、南はいわき地区に挟まれた地域ですが、出稼ぎをしなければなかなか生活が成り立たないような厳しい経済状況が続いていました。そこに電力需要の急速な伸びを背景とした発電所の建設圧力と、さらに戦後原子力事業を他国に広めることに消極的であった米国の政策転換があったため(1953年国連におけるアイゼンハワー大統領による「原子力平和利用提案」演説)、地域の活性化を求める過疎の地区に商業用原子力発電所が建設されることになったのです。1966年から造成工事が始まり1967年に1号機が着工されました。つまり現在事故の処理で大変な状況に陥っている福島第一原発の設計は少なくとも45年以上前であり、地震のない米国の技術移転から建設が始まったのです。1970年から試運転を開始し1971年3月26日から営業運転を開始しました。
以上が福島に原発の造られた経緯です。福島県は東北電力管内のため、福島原発で発電された電力は福島県内では全く使われず首都圏の生活を支えることにのみ使用されたのです。この歴史を知らずして脱原発と叫んでも空虚にしか聞こえません。安全対策をして原発を推進するか、ドイツ、イタリアのように脱原発に舵を切るのか、我々が様々な理由から原発に依存してきた要因を知らなければ実のある議論は出来ません。そして如何なる理由でも福島に対して、上から目線で発言することは慎まなければならないと思うのです。 |
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原子力発電所の圧力容器の中には二酸化ウラン69〜94トンが装填されています。ピンとこないかも知れませんが広島に落とされた原爆はウラン60sでした。つまり福島原発各号機にはそれぞれ広島原爆1000〜1500発分にも相当する核燃料があるのです。現在各地の放射線量が何マイクロシーベルトと毎日報道されています。また、先日は福島県内の小学生の尿から放射能が検出されたと報道されています。こういった各種の報道を自分の頭の中で整理すれば分かる人には分かるのでしょうが、なかなか原発事故の全容は却って分かりにくく報道されていると感じています。人によっては広島、長崎の被害者数に比して福島では死者が出ていないだけ、福島原発から放出された放射能は少ないと考えている人も多いようです。しかし、チェルノブイリ事故で広島型原爆200〜500発分の核物質が放出されました。福島はその10%程度です。そう考えると3月の時点で広島型原爆20?50発に相当する放射性物質が拡散し、尚放出は続いているのです。それが風に乗って各地に拡散し雨となって降り注ぎました。その結果が各地の測定結果になっています。既に報道の通りホットスポットが形成され隣接地よりも明らかに放射線量が高い地域が散在しています。広島、長崎では戦後まもなくから人が住み始めましたが、原爆の被害は主に爆風と熱線に依っており、その放出された放射能の総量は今回の数10分の1なのです。我々は放射線の急性障害では今のところ死者は出していません。しかし、慢性障害をきちんと防ぎきることが出来るか否かは一重に国民の関心に依っているとも言えるのです。
次回は今後の生活で注意すること、主に食事のことに触れたいと思います。
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