【内部被曝の危険性をめぐる欧米での議論】 前回、内部被曝の危険性について説明すると約束した。長いこと欧米では、原子力産業の人たちが一般向けに次のようなことを強調してきた。@自然バックグラウンド放射線はどこにもあるが、これで癌などになる人はいないので、それ以下の放射線で健康被害が出るということが考えられないということと、Aある線量以下では(例えば年間20ミリシーバート[mSv])健康への被害はないということだ。 @については、確かに日本では、自然バックグラウンド放射線は毎時0.04〜0.1マイクロシーバート(μSv、mSvの千分の一)で、1年間の線量に換算すれば、0.35〜0.88mSvとなる。そんなことについて、誰も気にかけていないのに、なぜ原発事故が起こってしまったときに低線量による健康被害が問題になるのか。実はその訳がちゃんとある。 Aについては、日本で起きたことと深い関係がある。それは広島と長崎に投下された原爆のことだ。戦後、アメリカ指導の被曝者研究が長いことなされたが、その成果が現在全世界で使われている放射線許容量となっている。しかし、原爆投下と原発事故とは同じものではない。ごく簡単に言えば、原爆は瞬間に起きてしまう大きな外部被曝だ。その後、環境にある原爆由来の放射性物質が体内に入れば、内部被曝も起きるが、アメリカ指導の被曝者研究はほとんどそれを無視した。原発事故のときは、逆に外部被曝が比較的小さく、原発からまき散らされた放射性物質が環境を汚染することから、呼吸と飲食によって体内に入ってくるのが大きな問題になる。 |
ICPRとECRR |
日本の被曝者研究の結果として出来上がった放射線許容量基準を扱う主な機関は国際放射線防護委員会(International
Commission on Radiation Protection, ICRP) といい、日本政府をはじめ各国の政府などが利用する放射線許容量基準を「ICRP基準」と呼ぶことが多い。これは外部被曝の基準であって内部被曝の危険性まで量ろうとすることは適切ではないと考え、そのICRP基準に対して不満を抱いてできたのが欧州放射線リスク委員会(European
Committee on Radiation Risk, ECRR)である。 前回、名前が出てきたバズビー博士もECRRのメンバーだ。ECRRの研究の結果として、ICRP基準が内部被曝による健康被害の危険性を200〜600倍程度過小評価しているではないかということだ。つまり、ある外部線量である地域で20年以内に癌などの健康被害を受ける人数はICRP基準の危険性なら10人と計算する。同じ条件でECRRの基準でその危険性を計算すれば、2000人〜6000人となる。これは特に、チェルノビリ原発事故後のヨーロッパでの健康被害調査結果から分かったことだ。 なぜそれほど違うのか、簡単に説明すれば、前述したように原発事故が起こった後、環境が放射性物質によって汚染されるためだ。様々な同位体(isotope*1)を含む放射性物質が体内に入ってしまえば、例えばウランやプルトニウムの微粒子が肺に入ったとすれば、長年放射しながらそこに留ってしまうこともある(微粒子の大きさも様々だが、ここではそれに言及しない*2)。それは癌の元となりうる。その微粒子が出している線量を体全体で受けた線量として換算すれば、自然バックグラウンド放射線をはるかに下回っていることになるが、大変危険だということが納得できると思う。バズビー博士は「火の前で手を温めるのと燃えている石炭の破片を飲み込む違いだ」という。 *1 isotope アイソトープ、とは、同じ原子番号を持つ元素の原子において、原子核の中性子(つまりその原子の質量数)が異なる核種 *2 微粒子の大きさの影響については、生井兵治「低線量内部被曝が深刻な理由」日本消費者連盟、消費者リポートNo1520、2012年10月21日、p4-5 |
進化による細胞の防衛 |
しかし、もう少し「なるほどね」と言わされる考え方があり、以下にそれを説明したいと思う。やや科学的なことなので、少し我慢して読んでいただきたい。まず、ちょっとだけ細胞の話。私たちの体は様々な細胞でできているが、常時には大抵の細胞が休止状態になっている。ある細胞や細胞核の遺伝子(DNA)に害を及ぼす何か(例えば、放射線)が現れたら、細胞が休止状態をやめ活発になり、DNAの修復と複製のプロセスを始める。これで、多少破損されたDNAが修復し、複製され、元の細胞とそっくり2つの細胞ができる。全ての動植物が長い進化の過程の中でこの防衛策を身につけたので、自然バックグラウンド放射線が頻繁に遺伝子変異や癌などを起こさない仕組みだと言える。 ただし、進化が予想できなかった問題が1つある。この細胞の修復と複製プロセスは約10〜12時間かかり、一旦始まれば止めることや、やり直しをするようなことはできない。原発事故から放出される人工同位体(元々自然界の中で存在しない、原発内や原爆の爆発でできるもの)の中で、原子が崩壊して放射線を出しても、その結果としてできる同位体も安定しているものではなく、また放射線を出して崩壊していくものがある。そのもっとも知られているケースが、良く耳に入るストロンチウム90(St-90)だ。このSt-90は、ベータ(β)粒子(高速電子)を放射して崩壊し、イットリウム90(Yt-90)になる。こんどは、このYt-90がまたβ粒子を放ち、ジルコニウム90(Zr-90)になる。Zr-90は安定した同位体なので、これ以上放射線を出さない。しかし、ここで大変肝心なことは何かというと、Yt-90の半減期が64時間であるということだ。これはなにを意味するだろう。半減期というのは、ある不安定な同位体の量が放射線を出し崩壊することで、その量の半分が次の同位体になる時間を表している。Yt-90の半減期が短いので、St-90が崩壊してYt-90になると数時間以内にそのYt-90は崩壊する可能性が高いということだ。 |
バズビー博士の「セコンド・イベント理論」 |
細胞に入ったSt-90がDNAに向けてβ粒子を出せば、細胞が自己防衛のために活発になり、DNAの修復・複製プロセスを開始するが、それを行っている10〜12時間の間にSt-90の崩壊でできたYt-90が崩壊し、修復不可能のDNA破損を起こす可能性が高い。バズビー博士はこれをセコンド・イベント(second event)と呼んでいる。それはそれで驚きの話だが、驚くことはもっとある。ストロンチウムという元素は何とDNA鎖の骨格にあるリン原子と親和性がよく、St-90の原子がDNAに接近して居座ってしまうので、Yt-90に崩壊する時にも、それがDNAの鎖の骨格のすぐ近くに起きてしまう可能性が高いということだ(St-90の半減期は約29年なので、微粒子が一旦身体に入り込んでしまったら、長いこと放射線を出し続ける)。こうして、元々自然界に存在しないセコンド・イベント同位体が体内に入った場合に、身体の細胞にあるDNAを破損させ、修復が行われないままで複製され、癌や次世代の奇形につながっていく。St-90以外には、福島原発災害のようなときに放出される主なセコンド・イベントを起こす同位体にはテルル132とバリウム140もある。 自然バックグラウンド放射線の主な同位体は、カリ40と炭素14だが、セコンド・イベントの心配はない。温泉にはラドン222とラジウム226が存在することがある。実は、ラジウム226はセコンド・イベント同位体だが、DNA破損の危険性はあるものの、それはかなり低い。このようなことで、なぜ原発事故の際、放出される人工同位体が健康被害を起こす可能性は高いが、自然バックグラウンド放射線は健康被害がないのか、セコンド・イベント理論が納得できる答えを出してくれる。 |
集中するアイソトープ・標的となるアイソトープ |
さらに、前述のセコンド・イベントではないが、身体のある臓器に集中する、半減期の短い同位体、例えばヨウ素131(半減期8日)は、似た現象を起こすのではないだろうか。さらに、ウランやプルトニウムの原子番号は高くて、92と94。身体内外から放出されるガンマ線が別の原子に当る確立は原子番号の4乗に比例するので、体内のウランやプルトニウムの微粒子は放射線の標的となり、DNAを破壊する(鉛〔原子番号82〕は放射線を通さない理由はそれだ)。さらに、ウランはSt-90と同様、DNA分子に結合する性質があるので、危険性が高い。 以上のことからわかるように、内部被曝の恐れがあるから放射性物質に汚染された地域にいることは危険だ。ICRP基準を引き合いにして、年間○○mSvまでは安全だという日本政府などの言い方は、放射性物質の重大な側面を見逃してしまったものだ。ICRP基準の欠点がある程度知られているヨーロッパでは、これからの福島は大変だと悲しんでいる。 |