2011年3月11日の東日本大震災後、水戸に避難なさったご夫妻にお話を伺いました。震災直後から水戸へ避難なさるまでの経緯を伺い、いくつかの質問をさせていただきました。ご夫妻のお宅は福島県浪江町川添蔵前で福島第一原発から10q圏内でした。

《震災直後の状況》
3月11日14時46分地震発生、大きな地震が長く続き不安を感じていたところ、屋外や各戸に備えられている防災浪江広報のスピーカーから「今、大津波警報が出ました。高台に逃げて下さい」との誘導。奥さんは避難所の浪江中学校がご自宅に近かったので、避難してきた親戚4人と一緒にそのまま自宅で待機。ご主人は南相馬市鹿島へゴルフに出かけていて不在。電話が通じずお互いの連絡がとれない。

11日夜、自宅には「雨戸、カーテンを閉め、外に出ないで自宅待機」と夜通し町からの指示が流れた。かすかに隣の双葉町の避難放送が聞き取れた。
 この頃、ご主人は車で自宅へ向かうも地震の被害で道路が寸断されたどり着くことが出来ず、南相馬市原町の農業用ビニールハウスに野宿。他にも40人位の人がハウスに避難。ご主人は携帯電話を持っていないため、避難している方に電話を借りてかけた。自宅へ電話が通じ、お互いに生きていることだけは確認。

12日早朝、町の放送は「国道114号線を通って津島へ向かって避難」との指示。奥さんは親戚の方と急いで114号線に向かったが、すでに114号線は車が数珠つなぎで入ることも出来ない状態。見慣れぬ白い防護服を着た人がたくさん立っていて異様な感じを受ける。よほど原発が大変なことなのだろうかと驚く。奥さん達はとにかく浪江町から離れれば良いのだろうと南相馬市原町の親戚宅へ向かう(結果的にこの決断は、避難指示された方向へ放射性物質が広がったため、被曝量が少ない方向への避難となった)。原町の親戚宅は幸いにも地震の被害を免れており、奥さんはすぐにご飯を炊いてもらいおにぎりを作って、ご主人が帰っているかもしれないと浪江町の自宅へ戻る。自宅にはご主人が帰ってきた形跡はあるが見あたらず、車も無かった。奥さんは「指示通りに動いて。原町に避難しているから」とメモし、おにぎりや食料と一緒にテーブルにおいてくる。メモを見てくれれば原町へご主人も来るだろうと思い、再び原町へ戻る。

13日、南相馬市原町地区も原発から30q圏内で避難地区となってしまい、奥さんは宮城県亘理町の長女宅へ避難。自宅に電話をするがご主人とは連絡が取れない。
 ご主人は浪江の自宅へ戻り18日まで家に居たと思われる(後に日めくりカレンダーから)。役場の職員に自宅に居るのを発見され役場の車で二本松へ避難。避難所では知り合いと一緒になり、毎日のように二本松市に仮移転していた浪江町役場へ奥さんの安否を問い合わせていた。
 一方、奥さんもご主人の避難先がわからず、浪江町役場、各避難所、自衛隊、警察の行方不明者、NHKへの問い合わせを続ける。銀行カードの使用状況なども調べるが使った履歴無し。「お父さんは絶対生きている。どこかの避難所に居る」と信じ探し続けた。
 役場も混乱しており、双方で役場に問い合わせ続けていても所在がわからなかった。

4月4日、次女の提案で福島民有新聞の尋ね人欄にご主人の事を載せる。その日の夕方にご主人より電話が入り二本松の避難所に居ることがわかった。

4月5日、宮城県亘理町から奥さんと長女夫妻、それに水戸に住む長男夫妻とでご主人を迎えに行き3週間ぶりに逢う。まずは奥さんがお世話になっていた亘理の親戚にお礼の挨拶に行き、その足でご夫妻は水戸の長男宅へ避難。水戸での生活を始めた。



図 2011年4月放射能汚染地図とご夫妻の避難経路



●避難するとき東京電力や町から原発の放射能漏れの連絡はありましたか
 ありませんでした。双葉町の避難誘導などの放送が聞き取れ、知りました。2?3日で帰れると思って家を出ました。その後も避難は長くはなるが先の見えない長さだとは思いませんでした。

●現在も立入禁止で、一時帰宅も時間、人数、荷物にいろいろな制限があり、水戸へ引っ越すこと自体大変だったのではありませんか
 みんなおいてきましたから。引っ越しは無しです。お金で買えない物・命だけで、2人が生きていられれば良いと思いましたから。

●一時帰宅なさるときは防護服が必要なのですか。一時帰宅時の様子は
 もちろん防護服を着用します。10月に一時帰宅した時、浪江町は一面稲が実った様に黄金色だったんです。お米であるはずは無く、セイタカアワダチソウの黄色い花だったんです。自宅の芝生には牛が入った形跡があり、道路にも“牛に追突注意”の看板がありました。野生化した動物は人間を頼らなくなっていますから危険なんですよ。そして、空気が違うんです。空気が重いんです。家の中は窓を開けることが出来ず締め切っている事もあるのでしょうが、家の外の空気も重く感じるのです。11月に一時帰宅がまたありますが、放射能の危険を冒してまで長男につきあわせたくないので今年はもう帰宅しません。

●福島県を離れ水戸での生活を始める決心をなさった理由は
 「子供達や孫に、危険だから来ないでね」と言わなければならない所には住めないと思いました。また、「除染をし5年後には帰宅出来るように」などと言われますが、私たちには1年1年が大切なんです。若い人と私たちの5年は違うんです。「将来もっと安全になり、時々浪江の自宅に行ければそれでいいね」と2人で言っています。先祖代々浪江に生まれ育った方はそうもいかないでしょうね。私(奥さん)は水戸生まれで長男夫婦も水戸におりますし、サポートを受けながら穏やかに暮らせたら幸せだと思いまして。穏やかに…この1年数ヶ月、いろいろありましたので…。

●以前職員にアンケートを取った内容ですが、政府や東京電力が発表する放射線量は真実だと思いますか
 思いません。同じ場所でも放射線量は高い所と低い所がありますが、意識的に低い所を報告されているように感じます。一時帰宅時に、線量計をつけていきますが下がっていません。その時の測定値と発表の値が違うことを質問した方がいらっしゃいましたが、きちんとした回答はありませんでした。

●東電の対応は誠実ですか
 東電が最初によこした書類は膨大でひどいものでした。こちらに来て生活するために購入した物も、領収書をチェックされ、ある程度しか認められません。「3月11日の大地震のあの時に戻していただければ私たちは何も請求しません。地震と津波だけの被害でしたらどんなことがあっても私たちは元に戻し再出発します。」と東電の方に言いました。


 東電から一時金が支払われても、先々移住しなければならないのか、故郷にもどれるのかが決まらず、一歩が踏み出せない方がたくさんいらっしゃると思います。そんな中、きっぱりと決断し、新しい生活に踏み出されたご夫妻の前向きな生き方に驚嘆しました。また、住み慣れた土地で、再出発したくても原発事故による放射能汚染で立ち入ることも出来ない悔しさ、やり切れなさをひしひしと感じました。
 一見平穏な水戸も、東海村原発30q圏内です。原発に対する防災意識を高く持つべきだと身にしみて思いました。
 「辛くて思い出したくない。忘れたい」とおっしゃっていたのにお話をしていただきありがとうございました。  
(ひろば編集委員 上野)